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横浜地方裁判所 昭和51年(ワ)1843号 判決

原告 大野恒規

〈ほか二名〉

原告ら訴訟代理人弁護士 安井愼三

被告 隅田一興

同 伊藤四郎

同 国

右代表者法務大臣 奥野誠亮

被告ら訴訟代理人弁護士 武内光治

被告国指定代理人 東京法務局訟務部法務事務官 玉山一男

〈ほか六名〉

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告らは各自原告大野恒規に対し一九四七万円、同大野栄治、同大野美知子に対し各五〇万円及び右各金員に対する昭和五一年一二月七日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  第一項につき仮執行宣言

二  被告ら

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二主張

一  請求原因

1  原告大野恒規は、同大野栄治、同大野美知子夫婦間に生れた子であり、被告隅田一興は、後記事故当時国立横浜病院(以下単に横浜病院という。)産婦人科の医師であり、被告伊藤四郎は、当時同病院整形外科の医師であり、同病院は被告国の経営する総合病院であり、被告隅田、同伊藤は、同国に雇傭されていたものである。

2(一)  原告美知子は、同栄治との間に同恒規を懐胎し、昭和四七年九月一一日横浜病院で妊娠持続期間、分娩、産褥、新生児処置について診療、処置を受けることとなり、その後、月数回通院し、同病院産婦人科の医長医師渡部三郎、被告隅田の診療を受けていた。昭和四八年二月二八日胎児が骨盤位であることが判明し、それを頭位にするため通院加療を受けたけれども頭位に回転できず骨盤位のまま分娩時を迎えるに至った。原告美知子は当時二七才で初産であった。被告隅田は、原告美知子の通院診療中医師渡部三郎の助手として、同医師の所見を二回カルテに記入したこともあり、診療内容を知っていた。

(二) 同年四月八日(日曜日)午前一時頃、原告美知子に陣痛が始まり、午前八時頃出血し、陣痛の度を加え、午前一一時頃破水を見たので、急遽横浜病院に電話し入院の手筈をし、正午頃自動車で横浜病院に赴いた。横浜病院の産婦人科控室で相当時間待たされ、その間三度も大量の破水があり、不安を覚えた原告美知子は、看護婦にその都度破水のあったことを知らせたが、看護婦は、見に来ただけで、「大丈夫です」ととり合わず、「あまり便所に行かないように。」と注意する位のことで別段の処置をせずに放置した。その間入院時に体重測定、尿の検査を受けたが、一度も医師による診察は行われず、午後四時頃まで控室で横臥していた。その頃胎児の娩出運動が盛んになり、看護婦は、原告美知子を分娩室に運び込んだ。

(三) 被告隅田は、当日当直で病院敷地内の自宅にいたが、午後五時頃看護婦石川ふみ子から連絡を受け、同五時五分頃分娩室に来て原告美知子を内診し、分娩介助を担当し、約一時間半経過観察し発露を待った。しかし、原告美知子の入院に当りカルテを検閲し、直ちに診察し分娩の進行度、破水の状況、胎児の位置、状態等を調べたり、これに対し然るべき処置は何もしなかった。

原告美知子は、初産の骨盤位であり早期破水のため当然難産を予想される異常出産であり、しかも、事前に骨産道、児頭、その他の諸計測が行われていなかったし、胎児の骨盤位の原因についても不分明の状況であった。

しかし、被告隅田は、看護婦との安易な打合せのもとに腹部を強圧させ、早期娩出を急ぐあまり臍帯脱出の際、臍帯が腕から腹部、又は、頭部の躯幹にかけて囲繞している状態を意に介せず、そのため子宮開孔部に頭部及び左腕がつかえ、左腕が強圧されている状態となったがこれを放置し、臍帯及び左腕に対する何らの矯正措置を施さず、ただ腹部強圧と下肢をつかみ、ゲバルティヒに胎児の取出しを強行したため、原告恒規の左腕を臍帯巻付部で折損した。

(四) 原告恒規は、出生後、横浜病院整形外科の処置を受けることとなり、被告伊藤が治療に当った。

原告恒規は、左腕に副木をあてられ、牽引されたが、腕部は赤紫色に変色し、むくみが出て、同年四月一七日左腕の神経麻痺の存在に気付き、同年五月八日頃副木をとったところ顕著な神経麻痺の症状が発現していた。爾後骨折は癒着したが、神経麻痺は残り、全型の腕神経叢麻痺で肘屈曲、手関節伸展、指屈伸の永久麻痺と診断され、現在に至るまで治癒せず、この症状は後遺障害等級としては第七級に該当する。

3  分娩及びその後の経過並びに処置等は以上のとおりであって、被告隅田、同伊藤は、善良な管理者の注意をもって、原告美知子、同恒規らの妊娠分娩、新生児処置について現代医学における知識と技術について認識を持ち適確な診断をし、適切な処置をすべき義務があったのにこれを怠り、これにより原告恒規の左上肢に全型の腕神経叢永久麻痺の傷害を残すに至ったものである。

(一) 被告隅田について

(1) 被告隅田は、分娩室で原告美知子を内診した際、帝王切開の適応にあるか否かについての判断を誤り、又は、同原告にその置かれた状態を十分に説明し、経膣分娩によるか、帝王切開によるかにつき選択の機会を与え、意思決定を行わせるべきであったのに、これを怠った。

(イ) 被告隅田は、原告美知子の内診により骨盤位であることを知っていたが、その分娩対策を決定するのに、骨盤位の発生原因を十分究明しなければならないのにこれを怠った。骨盤位について、右を背中にしていること以外に骨盤位の態様、即ち臀位、足位、膝位も判明していなかった。分娩方法を判断するための計測については、外来診察の内診時に母体について骨盤外部計測(棘間、櫛間、大転子、外結合、側結合線)を行ったが、異常分娩の際はこれのみでは資料は十分と言えなかった。内部計測器具もあり、発露まで約一時間半もの時間があったのであるから、レントゲン撮影等によって内部計測をし、母体及び胎児の状態を把握することに努めるべきであったのにこれを怠り、妊婦に対する外形的判断と内部触診のみで経腟分娩方法を採用した。

(ロ) そして、早期破水が四度もあったので、羊水過少となり、児頭の骨産道内通過時に臍帯の圧迫が予想され、児頭は通常分娩よりも早く産道を通過しなければ胎児の切迫仮死の危険度は極めて大きい。しかも、骨盤位分娩等においては不測の事態により産道における胎児の進行停止の度合は通常分娩に比し遙かに大であって、相矛盾する要素が現出するものである。したがって、骨盤位分娩の場合は、分娩開始前に経膣方式にするか帝王切開方式にするか決定しておくべきで、先ず経膣方式をとり異常ある場合に帝王切開に切り替えるというのでは危険は大きいのである。早期破水の初産骨盤位分娩では選択的帝王切開適応というのが通常である。

また、被告隅田としては、原告美知子に、その諸情況を説明し、帝王切開を希望するか、経膣分娩を希望するかの選択の機会を与え、任意に意思決定を行うよう説明すべきであったのにこれをしなかった。

(2) 被告隅田は、左挙上肢解出に当り粗暴な力を加えたものである。すなわち、

原告恒規の臍帯巻絡は首と左上肢にかけてあり、左上肢は娩出に当り万才の恰好で挙上していた。この恰好では左上肢を解出しなければ胎児の娩出は不可能である。上肢挙上の原因として一般に狭骨盤などでは自然に発生するものであるが、正常大の骨盤では殆んど常に早期、すなわち、子宮口が全開大する前に牽出を始めたために人工的に成立するものである。本件においては、臍帯巻絡があったためだけでなく、被告隅田が助産婦をして腹部の圧迫を行わせるなど早期娩出を計ったことも加功している。

更に挙上肢の解出にあたり、医師として認められる限度を超えて無謀な力を加え牽出したため原告恒規の頭と肩に必要以上の力と圧迫が加わり、腕神経叢に重大な損傷を負わせ永久麻痺を招来した。

(二) 被告伊藤について

(1) 被告伊藤は、原告恒規の骨折治療中持続牽引の重錘が重すぎたか、又は、他の原因によって頸部つけ根等において神経叢に切断ないし重大な損傷を負わせたことにより麻痺を発生、又は、悪化させたものである。

(2) 仮に、神経麻痺が同被告の診療前にすでに発生していたとしても、同被告は、分娩児の骨折に対してレントゲン撮影等により骨折部位、態様を明らかにしてその整復措置をなすとともに、上腕部長骨骨折等の場合には神経麻痺についても診察すべきであり、診察すれば右麻痺の存在を容易に診断し得るのに、麻痺に対する処置については全く意に介せず、安易に牽引を持続し、昭和四八年四月一七日になってようやく麻痺の存在に気付いた。しかも、分娩児骨折は、骨折状態が本件のように側方転位ないし短縮転化の場合は骨癒合が迅速完全に行われ、短期間の持続牽引で足りるのに、同年四月九日から同年五月八日までの長期間牽引を持続した。その間神経麻痺の存在を発見したのであるから分娩時等の状況を勘案して神経麻痺の原因を慎重に検討し、適切な治療を施すべきであったのに通常の外力性による一過性分娩麻痺として片付け、早期治療を怠り、マッサージ治療等にのみ終始し、著しい浮腫等の持続や、牽引によって循環障害による神経麻痺への悪影響を無視し、麻痺を悪化させた。

4  被告隅田及び被告伊藤らは、前記記載の過失により本件永久麻痺を原告恒規に与えたものであるが、右麻痺の真因については分娩時における外力性麻痺であるとすれば、被告隅田のみの不法行為であるが、骨折治療時の過失による骨断部の神経叢切断等の傷害がその原因であるとすれば被告伊藤の不法行為である。

本件については、麻痺の真因を右のいずれに求めるかは、原告恒規が新生児であり、麻痺の発生が整形外科の治療後発見されたこと等から困難であるが、その何れかによって麻痺は発生したものであるから、右被告らは民法七一九条後段の共同不法行為責任を負うべきである。

5  被告国は、同隅田、同伊藤の使用者であり、右両被告は、国の事業の執行について原告恒規に損害を加えたものであるから、被告国もまた民法七一五条一項により責に任ずべきである。

6  損害

(一) 治療費 七万一七五三円

(1) 横浜病院自己負担分 六万七六〇三円

(2) 東京大学付属病院自己負担分 四一五〇円

原告恒規は、昭和四八年四月八日から同年八月三一日まで横浜病院に入院し、退院後昭和五〇年一〇月頃まで同病院に通院し、その後現在まで東京大学付属病院に通院し治療を受けている。

(二) 看護・介護費 一四七万七八八六円

(1) 原告恒規は、昭和四八年八月三一日まで入院し、その後通院して治療を受けたが、乳幼児のため看護及び介護を必要とした。原告美知子は、日本電信電話公社横浜支店に勤務していたが、原告恒規を出産後同年四月二二日まで産褥にあり、特別休暇として産後六週間(四二日間)の休暇をとり、その後休職し、同年一二月一七日勤務を開始したが、同年四月二三日から同年一二月一六日までの二三八日間原告恒規の看護に当った。

原告美知子は、昭和四八年度において、六か月間に総額四九万〇八九五円の収入を得たので一日当り二六九七円となるが、この金額は一日当りの看護等の費用に該当すると解されるから前記二三八日では六四万一八八六円となる。

(2) 原告美知子が勤務を開始した後も、原告恒規の介護等は必要であったから、原告美知子は、母大野喜久とともにこれに当った。この間の介護等の費用は一日当り一〇〇〇円を相当とし、昭和四八年一二月一七日から症状の固定した昭和五一年三月三一日までの八三六日間の費用は八三万六〇〇〇円となる。

(三) 雑費等 一七万五四五〇円

(1) 入院雑費

正常分娩による健全な新生児は、約七日で退院するのが通常である。原告恒規の入院期間昭和四八年四月八日から同年八月三一日までの一四六日間から右七日間を控除した一三九日間について、一日五〇〇円をもって相当とし、その合計は六万九五〇〇円となる。

(2) ギブス代

一万五〇〇〇円中自己負担は六九五〇円であった。

(3) 交通費

(イ) 横浜病院について、昭和四八年九月一日から昭和五〇年一〇月三〇日までの間に二〇〇回通院し、一回のバス代は二五〇円であったから合計五万円となる。

(ロ) 東京大学付属病院には一四回通院したが、自己の乗用車を利用して一回往復に三〇リットルのガソリンを費消し、ガソリンは一リットル一一〇円であったから三三〇〇円を要し、また、その他の雑費として二〇〇円を相当とするから、一回三五〇〇円を要し、合計四万九〇〇〇円となる。

(四) 逸失利益 一一五五万三三八五円

原告恒規の後遺障害等級は七級で、症状固定は昭和五一年三月三一日であるから、労働能力喪失率五六パーセント、喪失期間一生、就労可能年限六七才、一八才から就労すると実就労年数は四九年間となる。

昭和四九年賃金センサス一巻一表産業計企業規模計一八才ないし一九才男子給与額は一〇〇万九九〇〇円である。

75,400×12+105,100-1,009,900円

これに物価上昇率二〇パーセントを乗ずると一二一万一八八〇円となる。

また、ホフマン式による右実就労可能年数の係数は一七・〇二四である。

67才-2才=65才  28.5599

18才-2才=16才 -11.5363

17.0239≒17.024

したがって逸失利益は一一五五万三三八五円となる。

1,211,880×56/100×17.024=11,553,385

(五) 慰藉料

(1) 原告恒規

入、通院について     二〇〇万円

後遺症について      四二〇万円

(2) 原告栄治、同美知子 各五〇万円

同原告らは、原告恒規の親として、同原告が乳幼児であったから、前記傷害について一刻も眼を離せずつきっきりで昼夜とも必死で看護等にあたり、その苦労は甚大であるが、今後も治癒の見込みのない不具の子を持つ親として悲嘆の極に沈みつつも、何としてでも健全な社会人として一人前に育てあげたいと念願している。その精神的努力と苦痛は、その子の死に勝るとも劣らないものである。

7  よって、原告恒規は損害合計一九四七万円(端数切捨)、同栄治、同美知子は各五〇万円及び右各金員に対する本件訴状送達の日の翌日である昭和五一年一二月七日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  答弁

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2(一)の事実は認める。但し、原告美知子が通院したのは月平均二回であり、胎児が骨盤位と判明したのは昭和四八年二月一九日である。

同2(二)の事実のうち昭和四八年四月八日原告美知子が入院し、後に分娩室に移ったこと、その間医師の診察がなかったこと、入院後陣痛及び破水のあったことは認める。右入院までの原告美知子の状態は知らない。その余は否認する。

同2(三)の事実は、被告隅田が当日原告美知子の分娩介助を担当したこと、同原告が初産で骨盤位であったこと、原告恒規の頭部の娩出の際、右被告が助産婦をして原告美知子の腹部を押さえさせたこと、分娩時に原告恒規の左上腕部の骨折が生じたことは認める。その余は否認する。

同2(四)の事実は、原告恒規が横浜病院整形外科の処置に委ねられ、被告伊藤が治療に当ったこと、その方法として、原告恒規の左腕を牽引し副木をあてたこと、同原告の手部がいく分赤紫色を呈し、むくみを帯びたこと、左腕の神経麻痺の存在に気付いたのが同年四月一七日であること、同年五月八日牽引を止め副木をとったこと、その後同原告の骨折は癒着したが、左腕の神経麻痺は全型の腕神経叢麻痺であって、肘屈曲、手関節伸展、指伸展の麻痺が残っていることは認める。その余は否認する。

3  同3の事実は冒頭部分の一般的注意義務のあることは認める。その余は否認する。

4  同4の事実は否認する。

5  同5の事実は被告国が、同隅田、同伊藤の使用者であったことは認める。その余は否認する。

6  同6の事実は原告恒規の入院期間及び通院期間が原告ら主張のとおりであることは認める。その余は知らない。

三  被告らの主張

1  分娩までの経過

(一) 横浜病院産婦人科における原告美知子の初診は昭和四七年九月一一日で妊娠三か月であった。同原告は以後横浜病院に通院し、被告隅田らが診察し、昭和四八年二月一九日胎児が骨盤位であることが判明し、これを頭位にすべく体位変換法を行った。

その方法として、自己回転促進法のうち膝胸位(膝肘位)法を指導実施させた。これは妊婦が就寝前に腹帯をとり、両膝をついて臀部を高くし胸部を床に接するまで低くする膝胸位を一〇分ないし二〇分間続けた後、頭を上げないで急速に児背と反対側の母体側を下にした側臥法をとって就眠する方法である。右方法を実施したが頭位回転することはできなかった。しかし経過は順調であった。

昭和四八年四月八日午後零時五〇分頃原告美知子が入院し、直ちに横浜病院助産婦らは約一〇分間にわたり同原告の血圧、蛋白、浮腫の有無、体重、腹囲、子宮底、胎児心音等の諸検査及び諸計測を実施し、陣痛発来、血性分泌、規則的陣痛発来等について事情聴取し、一三二号病室へ収容し観察した。

その後、胎児心音、陣痛、破水状態等について異常を認めず、午後三時三〇分頃陣痛があり、午後四時四〇分頃子宮口が四指大に開大したので、同原告を分娩室に移し、胎児心音の測定、陣痛の発作、間けつ時間の測定をし、内診観察を続けていたところ、陣痛間隔が短くなって来たので、午後五時二五分頃同病院宿舎に待機状態で在室していた被告隅田に来棟を要請し、約五分後、同被告は分娩室に至り同原告の分娩介助にあたった。

(二) ところで、原告美知子については、外来診察の内診時に産婦人科医長渡部三郎医師により産科真結合線、坐骨棘間径、恥骨結合高の計測を行い狭骨盤とは認められず、定期検診毎に必ず腹囲、子宮底を測定し、腹壁上からの児頭の把握を行い、狭産道でなく、経膣分娩で支障のないことを確認し、この方法によることを決定した。X線照射の胎児に及ぼす影響を考慮し、また、その必要もなかったので実施していない。

(三) 骨盤位の原因は一般的に明らかでないが、原告美知子の場合、胎児の異常のうち奇形、下肢の伸展及び臍帯の過長に関しては不明であったが、妊娠初期から後期までの診察でその他の原因はすべて除外されていた。

2  分娩経過

(一) 被告隅田が分娩室に至った際の原告美知子の内診所見では、子宮口は略全開大で、臀部、先進部及び子宮口には臍帯は触れなかった。胎児心音は良好で、約一時間後に先進部が排臨状態となったので、外陰部、下腹部及び大腿内側の消毒をし、必要な諸器機を揃えた。その約一〇分後発露となり、胎児心音は良好で、臀部、下肢、躯幹の順に自然娩出したので、ここで骨盤位娩出術にとりかかった。

先ず児の両下肢を右手でつかみ、児体を左旋回するように母体の左上方に挙上し、左手を児背と会陰の間から膣内に挿入し、指を児背、肩胛部、腋窩へと移動させ、左上肢より上肢解出を開始したところ、指が胎児の上腕部に達したが肘関節部には届かず同時に上腕部に臍帯を触れた。軽く左上肢の牽引を試みたが下降しなかった。そこで臍帯が左腕に巻絡し左下肢の挙上ありと判断し、直ちに児の両肢を右方向に挙上し直し、右側の児肩胛、上肢の解出を試みた。そのとき、容易に右肘関節に指が達し、これを引っかけ胎児の右上肢を児胸部に沿って移動させ解出に成功した。

ついで再度左上肢の解出を試みたが奏功せず、その間胎児の皮膚の色は青白色となり、切迫仮死の徴候で、これ以上時間をかければ児の生命に危険をもたらす状態となった。そこで更に手を奥に入れて左肢関節部に何とか達し、左上腕部から肘関節部を指でつかみ児の胸部に沿うように牽引したが思うように下降しないため、やや力を加えて牽引し解出させた。このとき児の左上腕骨の骨折が起った。

次に児頭の娩出態勢に移り、左手を児の口腔内に入れ、下顎骨に指をかけて右手で持っている児の両下肢を挙上し、児背を母体の腹壁に重ねるように移動させ児頭の娩出を完了した。このとき児頭娩出を速やかに行うため助産婦が母体腹部の圧迫を行った。この時刻は午後六時三八分であった。

(二) ところで、骨盤位、早期破水の場合の帝王切開の適応は、分娩が長びき子宮内で細菌感染の危険がある場合、臍帯脱出の場合、胎児心音不良となった場合、産道の開大が不十分で経膣分娩が不能の場合等であり、また、骨盤位における帝王切開の適応は、狭骨盤、軟産道強靱等の産道の異常、高年初産婦、児頭骨盤不適合、子癇、前置胎盤、臍帯脱出、母体の心疾患、母体の糖尿病、母体の骨盤膣内腫瘍、胎盤早期剥離、早期破水で長時間経過のもの、胎児心音不良、既往分娩がすべて死産、既往帝王切開等があげられる。

そして、骨盤位は異常分娩に該当し、頭位に比して破水は早いものであるが、それのみで帝王切開に踏みきるほどの異常ではない。原告美知子は、体格は普通であり、骨盤位で早期破水はあったが、分娩開始から、陣痛、胎児の排臨及び発露とその経過は順調で、分娩終了までの所要時間は約六時間で胎児心音も正常であったから帝王切開の適応には該当しなかった。

帝王切開には、手術時の麻酔に伴う危険、特に胎児がいわゆるスリーピングベビーとして出生し、そのため脳性麻痺の生ずる場合のあること、次の分娩の際子宮破裂もあること等の危険の予測されることもあり、安易に実施すべきものではない。

(三) 次に本件において臍帯は胎児の頸部及び左腕に巻絡していたものであり、このような状態は、胎内においては分からず、分娩が進行してはじめて分かるものである。原告美知子に対して骨盤位娩出術を施行し、はじめて臍帯の左腕巻絡に気づいたものであり、このとき既に胎児に急迫な危険が切迫しており臍帯切断などの処置をする余裕はなかったのである。また、左上肢の解出を行わない限り児頭の娩出は不可能であった。

胎児の上肢の挙上の原因は臍帯の巻絡があったため分娩が進行し胎児下降にともなって左上肢が胸壁から離れ児頭を越えて上方に伸展したものと推測される。

(四) 本件において、娩出時に助産婦が原告美知子の腹部を押えて娩出を促進させたが、これは、娩出を促進させ短時間で終了させる必要があったため実施したものである。

3  娩出直後の状態、処理

娩出後の原告恒規は、臍帯が頸を一回廻り続いて左上腕内側から肩胛部及び肩へと廻っていた。すなわち、頸部から左上腕部へと8の字に臍帯が巻絡していた。皮膚は全身チアノーゼを呈し、自発呼吸はなかった。そこで、被告隅田は、原告恒規の鼻腔内、続いて口腔、咽頭内の吸引物を吸収し、蘇生術を施行し、臍帯から五〇パーセント糖及びメイロンを注入し、酸素吸入をしたところ、一分後に自発呼吸を開始し、皮膚の色は徐々に回復した。沐浴施行後、保育器に収容し酸素を流出させた。

その後、被告伊藤に連絡し、その指示に従って児の左腕をうぶ着の袖を通さず、躯幹に密着させておいた。

4  骨折及び神経麻痺の治療経過

(一) 昭和四八年四月八日夜被告伊藤は、骨折の連絡を受けてその処置を指示し、翌九日先ずレントゲン撮影によって骨折の状態を確認し、絆創膏牽引(骨折箇所のやや下から、腕の両面に絆創膏を貼り、その先を引張る方法)をし、再度レントゲン撮影をしてその強さが適度であることを確認した。

その後、原告恒規に貧血性黄疽を認めたので、同月一三日小児科に転科させ、保育器に収容し牽引用絆創膏を貼布した上から副木(針金の金網に綿を巻いたもの)を施行し、牽引を一時中止した。同月一八日右病状が好転したので保育器から出し、副木をつけたまま牽引療法を再開し、常に牽引及び繃帯の強さが適度であることを確認しつつ経過を見守った。その間同月一五日原告恒規の左手部がいく分赤紫色となり、少しむくみを帯びたが、治療上差しつかえない状態であり、その後徐々に軽度になった。同月一九日のレントゲン撮影によっても骨折部の治癒状況に異常は認められず、同年五月七日レントゲン撮影を行ったところ写真不出来で診断困難のため、翌八日再撮影し診断の結果、骨折部の仮骨形成が良好であることが確認されたので同日牽引を止め副木を除去した。

その間原告恒規の左手の麻痺に気付き、被告伊藤が診察した結果、同原告は左上肢はまったく動かさず、左上腕全型の神経叢麻痺と認められたので、感伝電気療法及びマッサージ療法を続けたところ麻痺は徐々に回復していった。同年八月三一日入院治療の必要がなくなったので退院し、昭和五〇年一〇月二五日まで通院して麻痺治療を受け、徐々にその効果はでていた。治療の最後の頃は、左腕は挙上、肘の伸展ができ、手関節の掌屈及び指屈曲は微弱ながら可能になっていたが、肘屈曲、手関節伸展及び指伸展の麻痺が残っている。

(二) 新生児に上腕骨骨折のある場合には、患肢を全く動かさないものである。そのためある日数を経過しなければ神経麻痺の有無を診断することは困難で、そのため分娩後約一〇日間を要したことは止むを得ない。また、新生児が上肢を動かさないときには、分娩麻痺の場合及び分娩麻痺と骨折等他組織の損傷が合併している場合があり、これらの損傷は何れも分娩麻痺に類した症候を呈するので仮性分娩麻痺といわれるが、これと真性分娩麻痺との区別は経過をみなければ明らかにならない場合が多い。

(三) 原告恒規の神経麻痺は上腕骨骨折時、又は、骨折治療時に骨折部で神経を損傷して起ったものではない。上腕骨中央部の非開放性骨折の場合にも時として神経障害を見るが、その殆んどが橈骨神経障害であり、手関節の背屈、手指の開排等前腕以下の運動障害である。

原告恒規の左上肢は全麻痺型であり、上肢の挙上運動も全く行わなかった。すなわち、三角筋(頸神経第五、第六より発する腋窩神経が支配している。)及び棘上筋(頸神経第五より発する肩胛上神経支配)も麻痺していた。この部位は骨折部よりはるか上方である。

(四) また、包帯の緊縛によって起る障害、すなわち、阻血性拘縮は筋の変性と前腕部屈筋の高度の短縮であるが、昭和四八年七月五日に原告恒規について施行した筋電図検査において筋の変性は見られず、他動的に手指を伸展しても抵抗なく筋の短縮は見られず、浮腫は軽度であって、きつい包帯によって発生する阻血性拘縮ではない。骨折治療のために行った牽引療法は、躯幹に対し約九〇度挙上、やや外転位であり、X線写真を撮影して、骨折部が過伸展になっていないこと、牽引時の重錘の重さが適当であることを確かめているから牽引によって麻痺が起ったのでもない。牽引中手指の浮腫、皮膚の変色、自動運動を行わないのを認めたが、重篤な循環障害や阻血性拘縮が認められないので、そのまま牽引を続行した。

(五) 分娩麻痺の治療は、初め上肢を挙上位(躯幹に対し九〇度あるいはそれ以上)に保持して頭に近づけることである。原告恒規については、昭和四八年四月九日から同年五月八日まで一か月間仰向けにし肘を体から離し九〇度挙上位を保持する牽引療法による治療をした。分娩麻痺は神経叢が引張られて損傷を受けたために起ると考えられているが、この方法によるとき、神経叢が緩められるから牽引のために損傷を受けることがないばかりか、骨折及び麻痺の治療にもなっていた。

新生児の上腕骨骨折の治癒には普通三週間ないし四週間を要するところ、原告恒規は貧血性黄疽に罹り、小児科病棟へ移されて治療され、全身状態も悪るかったので約一か月間の牽引療法は長期間とはいえない。更に、マッサージ療法のほか感伝電気療法も続けた。腕神経叢の手術的療法は、これで回復しない場合が多く、長期にわたる電気マッサージ等の理学的療法で健康な筋肉の発育を促す必要がある。

したがって、きつい包帯及び牽引が神経麻痺を増悪させたものでもない。

(六) 原告恒規は、昭和四八年一一月二日には微弱ながら手指の屈曲は認められ、その後徐々に回復し、昭和五〇年六月二日には物を握れるがすぐ落す状態にまでなって、今後手指屈曲は回復に向う傾向を示していたが、なお相当の麻痺が残り、完全な治癒は望めないものと認められた。

(七) 結局原告恒規の神経麻痺は、分娩時に発生したものであるが、その発生原因は判然としない。

5  以上のとおり、諸検査の結果、母体及び胎児にもっとも危険のないと思われた経膣分娩を考えたことは至当であり、それにも拘わらず、本件事故は胎児の首及び左腕の両者に臍帯が巻絡していたという予期できない事情により緊急な事態において胎児救命のためやむを得ない措置によって生じた結果であり、被告隅田、同伊藤らに過失はない。

第三証拠《省略》

理由

一  原告恒規は、同栄治、同美知子夫婦間に生れた子であり、被告隅田は、本件事故当時横浜病院産婦人科の医師であり、被告伊藤は当時同病院整形外科の医師であり、同病院は被告国の経営する総合病院であり、被告隅田、同伊藤は、同国に雇傭されていたものであること、原告美知子は、同栄治との間に同恒規を懐胎し、昭和四七年九月一一日横浜病院で妊娠持続期間分娩、産褥、新生児処置について診療、処置を受けることとなったこと、その後通院して同病院産婦人科の医長医師渡部三郎、被告隅田の診療を受けていたところ、昭和四八年二月胎児が骨盤位であることが判明し、それを頭位にすべく通院加療を受けたけれども頭位に回転できず、骨盤位のまま分娩時を迎えたこと、原告美知子は当時二七才で初産であったこと、被告隅田は、原告美知子の通院診療中医師渡部三郎の助手として同医師の所見を二回カルテに記入したこともあり、診療内容を知っていたこと、同年四月八日原告美知子が入院し、後に分娩室に移ったが、その間医師の診察がなかったこと、入院後陣痛及び破水のあったこと、被告隅田が当日原告美知子の分娩介助を担当したこと、原告恒規の頭部の娩出の際、同被告が助産婦をして原告美知子の腹部を押さえさせたこと、分娩時に原告恒規の左上腕部の骨折が生じたこと、その後、原告恒規が横浜病院整形外科の処置に委ねられ、被告伊藤が治療に当ったこと、その方法として、原告恒規の左腕を牽引し、副木をあてたこと、同原告の手部がいく分赤紫色を呈し、むくみを帯びたこと、左腕の神経麻痺の存在に気付いたのが同年四月一七日であること、同年五月八日牽引を止め副木をとったこと、その後同原告の骨折は癒着したが、左腕の神経麻痺は全型の腕神経叢麻痺であって、肘屈曲、手関節伸展、指伸展の麻痺が残っていること、原告恒規の入院期間及び通院期間が原告ら主張のとおりであることは当事者間に争いがない。

二  《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  原告美知子は、昭和二〇年五月五日生で、本件分娩時に二七才であったが、同栄治との間に、恒規を懐胎し、昭和四七年九月一一日妊娠三か月のとき横浜病院産婦人科で渡部医長の診察を受け、被告隅田は診療録に渡部医長の所見を記入する等して補助し、以後一か月に二、三回通院していたが、その間、棘間(二五センチメートル)、櫛間(二八センチメートル)、大転子(三〇センチメートル)、外結合(二〇センチメートル)、側結合線(一六センチメートル)について外計測を行い、通院の度に子宮底、腹囲を計測し、用手により内計測をしていたが、昭和四八年二月一九日骨盤位であることが判明した。

また、それは、第二骨盤位であることは判明していたが、骨盤位の原因は明らかでなかった。しかし、胎児の奇形、下肢の伸展及び臍帯の過長は不明であったが、その他の原因は除外すべきものと診断されていた。

渡部医長は、胎位を頭位に転換すべく、その方法として膝胸位法(膝肘位法)を採用し、被告ら主張のとおり(胎児の背中は母親の右側にあったので左側臥位による。)指導をして一週間位実施させたが、頭位に転換せず、そのままの位置で分娩時をむかえることとなった。

しかし、それまでの原告美知子の経過は順調であり、渡部医長は、前記骨盤外計測及び用手による内計測から、原告美知子が狭骨盤とは認められず、右計測及び各来診時における診察を総合判断し、レントゲン写真による計測をする必要はないとして、経膣分娩方法によることに決定していた。

2  昭和四八年四月八日早朝原告美知子は、陣痛が始まり、午前七時三〇分頃出血し、午後零時一〇分頃破水があったので横浜病院に電話で連絡して、午後零時五〇分頃入院した。直ちに病棟で腹囲(八六センチメートル)、子宮底(三七センチメートル)、体重、尿等のほか児心音の検査を受け、児心音の緊張度は良好であったので分娩控室で待機した。午後三時三〇分頃児心音は良好であり、午後四時過ぎ頃陣痛が強くなったので分娩室に移り、同四〇分頃子宮口は四指に開大し、児心音は良好であった。

その間原告美知子は三回破水があったので、その都度これを看護婦らに告げ、看護婦らもまた経過を観察し、静かに横臥しているように指示したが、医師の診察はなかった。

3  午後五時三〇分頃原告美知子は排臨状態となったので、看護婦(助産婦の資格もある)石川ふみ子は、横浜病院構内宿舎にいた被告隅田に連絡し、同被告は約五分後に分娩室に至り分娩介助にあたった。

先ず、診療録及び看護婦の報告から、早期破水のあったこと、しかし、母体の全身状態に特別異常なく、陣痛は順調で児心音も良好であることの確認を得たうえで原告美知子を内診したところ、胎児の先進部である臀部に触れ、骨盤腔内に完全に嵌入しており、子宮口がほぼ全開大に広がり、臍帯には触れず、出血もなく、羊水の分泌にも異常なく、産道は柔らかく、児心音を聴取したところ良好であったので、消毒をして経過を観察することにした。また、初産で骨盤位であり、かつ、早期破水はあったものの外来診察の結果及び右診察による分娩経過から既定方針どおり経膣分娩によるべきものと判断した。

4  やがて胎児の先進部は下降し発露も間近くなったので、被告隅田は看護婦らを指示して外陰部の消毒、酸素蘇生器の点検、薬物の点検をした。午後六時三〇分頃発露となり、先ず胎児の先進部である臀部、次いで腹部と大腿部が自然娩出した。また、胎児娩出の直前、被告隅田は産道を広くする目的で原告美知子の会陰を五時の方向に側切開した。

次いで、被告隅田は、娩出した胎児の足を右手でつかみ、上方に引上げ、それと同時に胎児の肩胛部と母親の会陰部との間から左手を挿入させ、胎児の上腕をさぐったが、これに触れなかった。そこで、更に手を奥へ挿入し腕が挙上しているものと察知した。そのときすでに肩胛骨の下縁部まで娩出していたので、もはや帝王切開によることもできず、経膣分娩を続行することにした。

腕が挙上したままでは娩出は不可能なので、被告隅田は、先ず左上肢を解出しようとしたところ、臍帯が触れ、胎児の左上肢中関節付近に自己の左手人指と中指をかけ、胎児の胸をえぐるようにしてやや力を入れてみたが解出できなかった。そこで、これを変更し右上肢の解出を試みたところ、これは挙上していなかったのですぐに解出した。それから再び左上肢を前同様の方法で解出しようとしたが普通の力では解出できなかった。

その頃になって児心音は微弱となり、チアノーゼの現象を呈し、仮死状態となったので娩出を一刻も急ぐ必要があった。そこで被告隅田は骨折も止むなしと考え力を加えて解出を試みこれに成功した。その際、左上腕骨の中央付近が骨折した。

次に頭部の娩出に移り、ファイトスメリ法によることとし、下を向いている胎児の口に指を突込んで下顎骨に指をあて、右手で胎児の頸部をつかみ娩出させた。その際、被告隅田は、胎児児頭圧出法を併用することにしてこれを指示したので、石川ふみ子が分娩台の上に上って原告美知子の腹壁から胎児の頭部を押すようにして力を加えた。

分娩過程において臍帯の脱出はなかったが、娩出の完了した原告恒規は、臍帯が左上腕部に一回、頸部に一回巻絡し、全身チアノーゼ状態にあり、筋肉の力なく、呼吸をしない状態であった。娩出の完了は午後六時三八分であった。原告恒規の体重は三〇〇〇キログラム、身長は五〇センチメートル、肩巾一一センチメートル、腹囲二八センチメートル、胸囲三八センチメートル、頭囲三六・五センチメートルであった。原告恒規の骨盤位は、分娩経過から見ると臀位である。

5  被告隅田は、原告恒規の臍帯を切断し、鼻腔及び咽腔の分泌物を吸引し、酸素の加圧をし、臍帯を切断したところから五〇プロの葡萄糖一〇CCにメイロン一〇CCを混合して注入した。娩出約一分後、原告恒規は軽い泣声を挙げ、自発呼吸を開始したので酸素を与え、保温を十分にした。

次で上腕部を観察し骨折していることを確認したので、整形外科に連絡し、たまたま当直であった被告伊藤に原告恒規の状態を説明し、処置について指示を求めたところ、骨払部は出血がなく、腫れも強くなかったことから、固定しておくだけでよいとの指示により包帯で固定し、翌日まで観察をした。

6  昭和四八年四月八日夜、被告伊藤は整形外科で当直をしていたところ、被告隅田から電話で原告恒規の骨折について説明があり、処置について指示を求められ、全身状態は良好であるというので、折れた腕を体と一緒に軽く包帯して固定しておくように指示した。翌九日レントゲン写真を撮り、その結果牽引療法によることとし、末吉医師に指示し、骨折部位から末梢にかけて腕の周囲全周にわたらないように一部を空けて絆創膏を張りその上から軽く包帯を巻きそれに紐をつけ、滑車を利用して重りをつけ、その重りによって自然に体と直角位に引張られ肩がふとんから少しもち上る程度に保った。同月一〇日被告伊藤は重りの程度、牽引の強さが適当であるか、引張っている方向が適正であるか、特に、爪を押えたり、指をのばしたりして血行障害を起していないか等を調べ、異常のないことを確認した。

7  同年四月一三日原告恒規は前日から貧血性黄疽の症状を呈し、小児科に転科することになったので牽引部位に針金に綿をあて包帯で巻いた副木を当て、保育器の中から紐を出して牽引した。被告伊藤は一週間に三回位小児科に行って前同様診療を続けていたが、同月一五日前腕にリンパ液か血液循環不良によると思われる浮腫をし、皮膚はやや赤紫色を呈しているのを見た、同月一七日強度の浮腫を認め、左手の把握反射及び自発運動がなく、分娩外傷による左前腕麻痺を疑った。しかし、真正分娩麻痺と仮性分娩麻痺とは直ちに判定が困難なので、しばらく経過を観察することにした。

同月一八日保育器から出たので従前の垂直牽引方法をとったが、その後も指の自発運動を認めず、同年五月八日仮骨形成は良好と認められたので牽引を中止し、副木を除去した。その後も麻痺があり左上肢の屈曲反射、手指把握反射、左指及び腕の自発運動はなく、仮骨の圧迫、牽引による麻痺をも疑い、経過を観察した。同月一七日手部の浮腫は軽快したが、左腕は全く運動なく、手関節は完全に弛緩していたが、手指拘縮はなかった。また、三角筋、上腕二頭筋、筋人上腕三頭筋は触知できず、肘関節の屈曲は受動的にも制限されていたので、同日から電気マッサージによる治療を始めた。その頃真正分娩麻痺と診定した。そして肘を体からできるだけ離すようにして神経が引張られたことによって生じたと考えられる麻痺を、肩と頭を近づけることにより損傷を受けた神経を緩めることにより回復をはかる方法を採用し、他面これにより上肢の関節が固まらないように電気マッサージの施行をした。

8  同年五月一八日原告恒規は全身の活動力は良好で左腕の浮腫は軽減したが、左上腕は完全に麻痺が認められ手動マッサージを施行した。その後も左上腕の麻痺は持続したが、同月二八日頃になって肩運動は軽度に回復し、同年六月一八日電気ショックにて手指運動を誘発した。同年七月上旬から中旬にかけての症状は、左上肢を少し挙上する様になり、三角筋の機能が少し出て来て、肘関節も確実に伸展し、肩胛挙上筋を使って肩を上げるようになったが、二頭筋、三頭筋、廻内筋郡の麻痺は持続している状態であった。

同月下旬頃の症状は中指を伸展し、拇指、示指、中指を少し屈曲し、小指を少し伸屈するが、左腕二頭筋、三頭筋の反射はなかった。同年八月頃には左上腕の挙上運動は見られ、頭や肩の高さまで一時的に挙上するが、また、ドロップハンドして麻痺し、手指の運動は乏しく、把握反射はなく、深部、腕反射、二頭筋、三頭筋、廻内筋反射、前腕ソコイル反射はなかった。

9  原告恒規は、骨折部分が完全に癒着し、同年八月三一日退院し、その後昭和五〇年一〇月頃まで横浜病院整形外科に通院し、また、東京大学医学部付属病院にも通院して治療を続けたが、昭和五〇年一月一四日東大病院において、左上肢分娩麻痺で、それは全型の腕神経叢麻痺であり、肘屈曲、手関節伸展、指屈伸の永久麻痺を残す見込と診断された。

横浜病院に通院中は左上肢を電気マッサージによって治療を継続し、同年六月頃には、左上腕二頭筋に触れ、左上肢の挙上、内転、左肘関節の伸展を行うようになったが、左肘関節の自動屈曲は行わず、手関節の背屈は行わず、尺屈、掌屈はややでき、前腕の回内ができるようになり、回外運動の最後に抵抗あり、手指の伸展は行わず、屈曲はすこしでき、物を握れるが、すぐ落すという状態であって、将来の回復はあまり期待できない状態にある。

以上のとおり認められ、ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

三  原因について

診療の経過は以上認定したとおりであり、これを、《証拠省略》により、先ず原因について考えて見る。

1  原告恒規の左腕の神経麻痺は、全型の腕神経叢麻痺であって、現在肘屈曲、手関節伸展、指伸展の麻痺が残っているが、麻痺と診断された当初、左上肢の屈曲反射、手指把握反射、左指及び腕の自発運動がなく、手関節は完全に弛緩し、三角筋、上腕二頭筋、筋入上腕三頭筋は触知できず、肘関節の屈曲が制限され、左上腕が完全に麻痺し、これが持続していたものであり、その後徐々に肩運動が軽度に回復し、左上肢を少し挙上する様になり、三角筋の機能が出て来て、肘関節も伸展を見せ、肩胛挙上筋を使って肩を上げるようになり、その後も、症状はやや回復して来ているものである。

2  右のような症状は、分娩時に、分娩児の頭、又は、肩が、産道の狭窄部にとらえられて、頭と肩が引離される方向に力が働き、そのため神経叢が牽引され、その際、切断、引延し、あるいは、圧迫される等の損傷によるものである。これには、上位型、下位型及びその全型があるが、原告恒規の場合は、そのうち全型の症状を呈している。

そうだとすると、原告恒規の娩出にあたり、被告隅田が、右原告の左上肢の解出をし、頭部の娩出をなした際に、その頭、又は、肩が、産道の狭窄部を通過するとき引離される方向に力が働いて神経叢が損傷したことが考えられる。

右娩出に際し、原告恒規は上腕骨を骨折しているが、もし骨折によって神経に損傷を与えたのであれば、その神経から末梢方向に神経麻痺があらわれるが、本件は、上腕骨の中央部付近が骨折しているのに、その末梢方向のみならず上腕部の神経にも麻痺が及んでいるのであるから、本件の麻痺は、右骨折によるものではない。

また、被告伊藤がなした上腕骨骨折の治療方法は、その方式において医学上認められたものであり、同被告は重りの程度、牽引の強さ、方向に気を配り、腫れや血行障害等に注意し、阻血性拘縮の後遺症を残さないようにしていたものである。その牽引は新生児骨折の治療方法であると共に腕神経叢をゆるめるので神経損傷の治療方法ともなり、かつ、臨床的には、僅かではあるが、原告恒規の麻痺は回復して来ているのであって、同被告の治療行為が、右原告の前記麻痺を招来し、又は、悪化せしめたことを認めることはできない。

3  以上のとおり他の原因において否定され、考えられる被告隅田の左上肢の解出、頭部娩出の際の神経叢の損傷が、医学的にも是認され、他にこれを覆す証拠のない本件においては、原告恒規の前記症状は、被告隅田の右行為によるものと認めるのが相当である。

4  原告恒規には、左上腕部及び頸部に、それぞれ一回臍帯が巻絡していたのであるが、そのため臍帯に余裕がなく、娩出にともない身体の移動に沿って臍帯が移動できず、臍帯が左上肢を押える状態のままで身体が移動したことが挙上の原因であって、このように、左上肢挙上と臍帯巻絡が相まって左上肢の解出を困難とし、また、臍帯が児頭、又は、その他によって圧迫され、これが原因となって全身チアノーゼ状態となり、児心音微弱、仮死状態となったので、被告隅田は、胎児を危険から脱出させるため、急いで、先ず、左上肢を解出し、頭部を娩出したもので、その際、頭と肩が引離される方向に力が働き、神経叢が牽引され損傷を受けたと認めるのが相当である。

四  被告隅田の過失について

そこで、以上認定した診療経過と証拠によって被告隅田の過失について考えて見る。

1  骨盤位の原因として、胎児の異常(未熟児、奇形、双胎、下肢伸展等)、羊水過多症、前置胎盤、子宮の奇形及び腫瘍(双角子宮、重複子宮、子宮筋腫の合併)、狭骨盤、子宮及び腹壁の弛緩、臍帯過長等が挙げられ、原告美知子の場合、その何れであるかの原因については、胎児の奇形、下肢の伸展及び臍帯過長以外は除外されていたが、必らずしも明らかにされなかった。

また、骨盤位の場合、その分娩方法を決定するのに胎児の態様を知っておくことは有効であるが、原告美知子の場合、児背が母体の右側にある第二骨盤位と判明したほか、その胎位については明らかにされず、ただ分娩経緯から、それは、臀位であることが判明した。

そして、骨盤位の場合、その分娩方法、特に帝王切開によるか、経膣分娩によるかを決定するのに、骨盤の計測値が大いに役立つものである。また、頭位分娩の場合より大きな骨盤のスペースを必要とするものであり、X線骨盤計測により胎位、胎勢も判明するという。

本件については、渡部医長により外計測、用手による内計測がなされたほかは、X線、又は、超音波による計測はなされていない。X線照射による母児に対する悪影響は、否定できないが、統計的に極めて低いものであることを考慮すると、X線骨盤計測により得られる資料は医師の判断を助けるうえで有用であるから、外計測値のはなはだ小なる場合、骨盤位の場合等は、X線による計測の適応と考えられる。

しかし、本件においては、渡部医長による計測等により原告美知子の狭骨盤は否定され、骨盤位であることを考慮しても、その娩出術によりX線による計測をしなくとも経膣分娩を可能としたものである。

以上によってみると、前記認定したほかに、なお、骨盤位の原因、胎児の胎位、胎勢を究明しなかったこと、X線照射等による計測をしなかったことは、本件分娩麻痺との間に相当因果関係はないものと言わなければならず、また、医師としての裁量を考えると、過失があると言うことはできない。

2  骨盤位分娩においては、児頭が骨産道内を通過する時に臍帯の圧迫が予想されるから、すみやかに産道を通過し終ることが必要である。

その際すでに児体の大部分は娩出しているので経膣分娩を帝王切開に切りかえることには無理があり、不可能に近い。したがって、骨盤位分娩を予じめ経膣方式によるか、帝王切開方式にするか、また、経膣方式をとった場合でも、その進行経過を見て如何なる段階に帝王切開にするかの問題がある。

(一)  胎児の胎位、胎勢が異常の場合において、斜位横位は帝王切開の適応といえるが、骨盤位そのものは適応とはならない。骨盤位の場合で、高年初産婦、X線によるCPDの確定、前置胎盤、胎盤早期剥離、臍帯脱出、心疾患、糖尿病、骨盤腔内腫瘍、遷延分娩、早期破水、児心音不良、既往分娩がすべて死産、既往帝王切開術等が加味されれば、いずれも医学的に帝王切開の適応となりうる。

(二)  骨盤位の場合には、早期破水となり易く、早期破水になると、羊水過少となり、臍帯が過度に圧迫され、仮死の危険の生ずる場合がある。臍帯、四肢の脱出の有無を確認し、それがあれば帝王切開などの処置をとる必要があるから、初産の骨盤位で早期破水の起った場合は、感染に厳重留意して帝王切開を行うのがよく、陣痛発来時が帝王切開の時期であるとするものがある。

そして、これは、骨盤位の経膣分娩における児の死亡率が頭位に比べて高率であり、児の予後に不安危惧があるのに、各種診断法、多くの抗生物質の開発、麻酔法の進歩、手術術式等の改良等によって帝王切開の安全性が著しく高められたことによるものである。

(三)  これに対し、帝王切開児には経膣分娩児にはみられない特有ないわゆる帝王切開症候群がみられ、生児としての出発点において母体外順応過程に遅れをとり、帝王切開の適応自体及び帝王切開術に不離の手術侵襲やそのほかの処置による影響を受ける。帝王切開に伴う手術瘢痕部破裂、次回妊娠時の子宮破裂、麻酔剤による胎児への影響(スリーピングベビー)、脳性麻痺等を起すこともあり、帝王切開は必ずしも完全無欠の治療法ではない。そして、各種予防、治療、処置等が効果的に行われるようになり、殆んどの骨盤位は経膣の自然分娩、あるいは、自然に近い分娩介助や娩出術などの手技を加えた経膣分娩によって健康な生児を得ている。骨盤位の経膣分娩は、その取扱いに十分注意をはらえば骨盤位分娩に伴う周産期死亡率を低下させることが可能であるとするものがある。

(四)  帝王切開を行うのがよいとの立場に立っても、早期破水の起きた場合に、胎児の切迫徴候がなく、頸管開大度が一ないし二横指で、また、羊水漏出の少ないときは、横臥位をとって腹圧を禁じ経過を見るとしている。何れの立場に立っても臍帯が脱出し、児心音が不良となり、産道の開大が不十分で、経膣分娩不能、その他母児に切迫した症状の出現を緊急的帝王切開の適応とする。その場合先進部が骨盤内に深く嵌入した後は、帝王切開は不可能か、又は、困難であるから急速分娩によるとする。

したがって、帝王切開の適応にある場合においても、選択的及び緊急的何れの場合でも、絶対的適応を除き、帝王切開によるか、経膣分娩によるかは、その時の産婦及び胎児のおかれた状態で、その当時における医学水準に照し、医師の知識、経験、技能等により裁量的な判断に委ねられなければならない。初産、骨盤位で早期破水のあった場合は帝王切開の適応にあるが、それは、絶対的に、選択的帝王切開によらなければならないものではなく、産婦に何れによるかの選択の機会を与えなければならないものでもない。

そうすると、被告隅田が、原告美知子及び原告恒規の前記認定のような状態のもとで、帝王切開をせず、経膣分娩方式によったことは、医師としての裁量の範囲内であったというべく、その処置に過失があったと言うことはできない。

3  本件では臍帯巻絡の原因は明らかでない。臍帯巻絡は頭位の場合でも、骨盤位の場合でも起り、頸部、又は、上腕部に巻絡し、そのうちでも頭部に巻絡するのが多い。頸部及び上腕部に臍帯の巻絡している例は珍しく、骨盤位の場合、通常臍帯巻絡の判明するのは胴体が娩出し、上肢解出のときであり、その状態で判明したときは娩出を急ぐしか他にとるべき方法はないので、被告隅田は、自らその手技を急ぐとともに、補助的に圧出法を採用し、石川ふみ子に原告美知子の腹壁から胎児の頭部を押すように指示したものである。本件では、早期破水があったにかかわらず分娩経過は比較的順調で遷延しているとはいえないし、念のため側切開もし、子宮口が全開大する前に牽出したものではないからこれによる巻絡ではない。また、狭骨盤は否定されているのでこれによる巻絡は考えられない。

本件で左上肢の挙上の原因は臍帯が巻絡していたためこれに余裕がなく、娩出にともない身体の移動に沿って移動できず、臍帯が左上肢を押える状態で身体が移動したことによるものと思われるが、骨盤位の場合、臍帯脱出、臍帯巻絡が予測され、切迫した状態を招来するから帝王切開によるべきであるとの立場は骨盤位そのものを絶対的適応とするものであって、採用し得ないことは前記のとおりである。

また、骨盤位の上肢挙上の解出には熟練した技術を要するが娩出術の発達により当然に危険視することはできず、被告隅田は、産科学上認められた方法で上肢及び頭部の娩出をなしているものということができる。

被告隅田は、左上腕骨の骨折する場合のあることを認容して左上肢の解出に普通以上の力を加えたものであるが、それは、臍帯が産道内において、頭部、又は、腕部等によって圧迫され、呼吸困難となり、児心音は微弱となり、チアノーゼ現象を呈し、仮死状態となったので、娩出を一刻も急ぐ必要がある状態においてなしたものであって、その場合、生命に危険を伴う場合もあるので力を加えて左上肢の解出を試み、続いて頭部の娩出をなしたものである。

原告恒規の左腕神経叢の損傷は、その際に生じたと考えられるが、しかし、被告隅田が認められた限度を超えて無謀な力を加えたとは認められず、かつ、生命の危険をも伴う急迫した状態においてこれを救うために普通以上の力を加えることがあっても、それは止むを得ない処置といわなければならない。

以上によるとき、結局被告隅田の処置に過失があったということはできない。

五  そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下郡山信夫 裁判官 松井賢徳 姉川博之)

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